天文4年(1535年)の12月5日、同族の松平信定を討つ為に、松平清康は尾張の守山に出陣したものの、その陣中で、家臣の阿部弥七郎によって殺された。これは俗に「守屋崩れ」(天文の内訌の一つ)と呼ばれ、一時的に松平氏の精力は衰退する。
陣中で馬が暴れた為、清康がその馬を捕縛命令を下したがそれを阿部は父が成敗されたものと勘違いをし、清康を殺したとされている。しかし実際は、阿部は信定が派遣した刺客説もある。
信定は清康にとって叔父に当たる人物である。信定は暗愚な信忠が早々に清康に宗家の地位を継がれた事に対して不満を持っていた。故に信定が織田氏に接触をするのも至極当然であって、信定は織田氏と手を結び、虎視眈々と宗家の座を狙っていた。
その守山崩れ直後に発給された、徳川家の奉行人連署による文書がある。
六名之内天神崎之分、寺屋敷ニ諸不入ニ、末代寄進被申候、
異儀有間敷候、仍而為後日如件、
天文五年申
壬十月廿六日
酒井与七郎
康正(花押)
小栗三郎次郎
上和田 信臣(花押)
成珠院 堀平右衛門
重政(花押)
植村与三郎
康家(花押)
天野清右衛門
忠親(花押)
上田源助
元成(花押)
内藤藤八郎
国重(花押)
※「浄珠院文書」『新編岡崎市史6 史料古代・中世』より
飛ぶ鳥を撃ち落とす勢いがあった清康の横死後、跡継ぎの広忠が十歳と云う齢と云う関係もあった為か清康の領国運営は瞬く間に瓦解し、更に信定によって、広忠は岡崎城から追放された。広忠は伊勢へ逃れ流浪した後に今川義元の援助によって岡崎城を奪還する事が出来た。
先に挙げた文書は、信定が岡崎城城主となった後に発給されたもので六名(むつな)の農民の同意を得て初めて(この同意文書は省略)、成珠院への寄進が出来た。この時代に於ける農民達の結束力が確固たるものである事を意味している。
さて、小栗信臣となる人物が徳川家の奉行人として登場しているのは、実に興味深い。 残念な事に、この人物が、筒針小栗家や常陸の小栗宗家並びに三河へ土着した小栗家と如何なる関係があったかは、不明である。
関係が不明とは言え、約三十数年後に吉忠が奉行人に任ぜられているが、小栗家は家康が登場する以前から、徳川家の奉行人として活動していた史実が分かる史料である。