これは私が修士論文を執筆した際に松平氏についてまとめたもの。2000~2002年頃にまとめていた記憶がある。

執筆当時『三河松平一族』が出版されていなかったので、 少々、古い先行研究が記述されている可能性がある。松平宗家とその一族に関するコンテンツも合わせて御覧頂きたい。

三河の一豪族だった松平氏は、次第に力をつけ、隣国の戦国大名にも人目置かれる存在までに成長したものの、 相次ぐ内乱によって一時的に力を失う事となった。しかし、徳川家康の台頭によって三河のみ成らず、有力な戦国大名として発展し、 最終的には江戸幕府を開設するに至った。

軍事力もさることながら、家康が天下統一を成し遂げられた要因の一つに、 他の戦国大名には類が見られない、家臣団の統制政策に特徴があるものと思われる。それは、如何なるものだろうか。

松平宗家と庶流家について

上野国の僧とされている親氏が、どんな御縁があったのか分からないけれども、 三河松平郷に入部した際、松平郷に土着している武士の娘を娶った。これが『三河物語』などに記述されている松平氏の興りである。

確かに、親氏は上野国にある世良田出身(現在の群馬県新田町世良田)であるが、 実際の所は、諸国を巡り歩く職人だった可能性が高い。実際、室町時代の頃には諸国を津々浦々歩く僧が存在していたが、職人の存在も確認されている。

その後、松平氏は弟である二代泰親の頃、平野に進出し、 三河の国人達と双肩を並べるに至り、三代信光の頃には、 西三河の大半を手中に収める事が出来た。

信光は多くの子女を設け(その数は四八人とされているが、名前が判明されているのは、20人も満たない)、 そして、子供達を他地域の国人に嫁がせる事で彼等と血縁関係を結んだ。これが、松平庶流家の興りである。

七つの庶流松平家は、宗家との密接な関係を結びながらも、 そこで多くの庶流を産み出し、松平家を地方に拡大させた。庶流家は酒井・鳥居など三河に於いて比較的に小規模な領主との家来関係を築き上げた。これが、松平譜代の興りである。

四代長親にも多くの主流家が設けられた。所謂、十四(或いは十八)松平家の事を指す。その後、岡崎を拠点を置いた七代清康の代で松平氏は最大の領土を持つまでに至った。

ところで、四代親長以降の子孫は正確に言うと、松平宗家で無い。安城(愛知県安城市)に 拠点を置いた安城松平家である。安城松平家は、岡崎に拠点を置く松平宗家を凌駕する程の勢力を持ち、結果として、 清康の時代に岡崎城を乗っ取り、松平宗家として君臨した。

そんな清康も家臣によって殺された以降(所謂、守山崩れ)、嫡子の広忠はまだ幼く(十歳)、 加えて、庶流松平家からも内部分裂が起こってしまった為、譜代と一族は駿河の有力な戦国大名、今川義元に助けを求めざるを得なかった。

こうして、広忠は義元の庇護の元で岡崎城を保つ事が出来たものの、以前より広忠に対立していた庶流家の松平信孝は、 再度、広忠と決別して織田信秀と内通し、信秀は三河に進攻した。広忠は、義元の力を借りざるを得ない状態に陥り、人質として竹千代(家康)を義元の元へ送ったが、 途中で、織田信秀の人質となってしまった。

その上、松平一族の内部分裂は、拍車が掛かれ、更に広忠が殺され、岡崎が混乱状態に陥った時、 義元は松平の家臣が織田の味方になるのを防ぐ為、織田から竹千代を奪い、遂に岡崎城も今川配下の城と成った。この頃の松平庶流家は、宗家自体が絶対的な支配権を持っていない所為か宗家(安城松平家)に反発する家もあった。それは皮肉にも松平氏(宗家)が本拠地を失う事に繋がったのである。

家康の独立

今川配下での人質生活では、義元が最低限の知行地しか与えなかった為に、 貧窮にあえぐ生活の辛酸を舐めさせられた。一方、所領を今川に没収させられた、松平氏の家臣は更に悲惨な生活を余儀なくされた。家臣達は、今川と織田との戦いにも否応なしに出陣命令が下される事も多々あったが、 彼等は、皆、家康の岡崎帰城を切に願望していた。この時から家康と家臣との主従関係が強いものであるかが伺える。

十一年の人質生活を終えた、家康は念願の三河統一に着手し、更に長い間、敵対関係の状態だった織田信長と同盟を結んだ。今川と縁を切った事で庶流家や譜代達も相次いで、今川から離反し家康に属した。三河の有力な国人、吉良氏や牧野氏を追放したのもこの頃である。

三河統一の課程は順風満帆に行く様に思えたが、酒井忠尚の謀反が契機となって引き起こされた、 三河一向一揆では苦戦を強いられる事となる。辛くも一揆を平定したが、この一揆では家康の領国経営観を大いに変えた。一揆側に与した家臣を帰参させたのも、その一例である(例えば、本多正信など)。

その後、名目上、三河領主となった家康は、有力な戦国大名として更なる、飛躍を遂げる事となる。