これは懺悔的な記事であるが、30年前近い昔の話なので、時効になっていると思う…。
然らば、堂々と書いてしまおう!
5月に修学旅行、6月に体育祭な中学校行事
私が通っていた中学校では6月に体育祭が開催されていた。体育祭と言うと「体育の日」が設定されている10月開催というイメージがあるが、代わりに10月には文化祭があった。自由な校風の公立中学校だったので、競技の合間には、例えば、中学3年生を中心に個性豊かな応援団による催しものがあって、体育が苦手な人間でも楽しめられたイベントだった。寧ろ、参加する方に意義がある的な要素が強かったので、「勝敗に対するこだわり」は強くなかった。
体育祭名物の恒例競技として、中学3年生によるクラス対抗の大縄跳びがある。1クラス40人全員で多く回数飛べたら勝利というシンプルなものだったが、これに向けて、放課後になると、どのクラスも居残って練習をしていたものだ。勿論、苦手な人も頑張って練習していた。
そして、中学3年生には、体育祭が開催される6月の前にも、もう1つ大きなイベントがある。それが5月の京都への修学旅行だ。大概、修学旅行が終わると、体育祭の大縄跳びに向けて練習をするのがセオリーで、私のクラスも当然、それに倣っていたのだが、私は練習に不参加というアクシデントに見舞われてしまったのだ。
バスでの落下事件
どんなアクシデントなのかと言うと、事の発端は5月の京都修学旅行で起こった。
数人のグループ班に分かれて京都市内を自由に行動していた。平安神宮に行こう、という話になって、バスにて乗車。当時から歴史好きだった私は平安神宮に行くのが楽しみで、少々、浮かれていた。間もなくして平安神宮に到着。
降車するので、前方に移動し、お金を運賃箱に入れた所までは覚えていたのだが、次の瞬間
何故か正座して地面に座っていた、と言う…。
バスの運転手さんや同行していた友達が「大丈夫?」と心配して声を掛けてくる。どうやら、運賃箱にお金を入れた直後、バスの下り階段から足を踏み外し、そのまま落下したらしい。
本人、落下時の記憶が一切無し!
しかしこの時、足には何も異常を感じなかったので、そのまま自由行動を再開した。
ところが…それから多分2時間ぐらい経過した頃から、右足の足首が「じりじり…」と痛み始めた…。最初は大丈夫!と無理していたのだが、段々その痛みが尋常ならざるを得ない状態になったので、靴下を下げて見てみると
足首が赤くなっており、更にドス黒くなっていた…。
この惨状に顔面蒼白した。素人でもヤバい…と感じた。幸いにも見学すべき施設は見終わったので、宿泊するホテルに戻った。担任の先生経由で同伴していた保健室の先生に診察して貰った結果
「足を捻挫しているので、ホテルで待機して下さいね」
と言われてしまった。
大縄跳びの練習に一度も参加出来ず
捻挫をしてからは残りの修学旅行日程には殆ど参加出来ず、我が身を呪った。ところが更に弱り目に祟り目な宣告を受けた。
自宅に帰宅した後、改めて整形外科に診察をして貰ったのだが
「3週間は運動を一切禁止」の宣告をされてしまった…。カレンダーを見て更に顔面蒼白…。
体育祭は3週間後…。つまり大縄跳びの練習が一切、不可能だった。
当時、硬式テニスをやっていたので、体力には自信があったのだが、幾ら何でも、大縄跳びは練習しないと無理だった…。せめて運動可能な日数が1週間あれば、戦線復帰となったのだが、私だけ一度も練習せずの本番を余儀なくされたのだ。
本番当日…
かくして体育祭前日に至り、念願叶って包帯が取れた。
「全然運動をしていませんー。助けて下さいー」と1人だけ涙目になった私をよそに、クラスメイト達は大縄跳びへの気迫が充分だった。地団駄踏んでも仕様が無いので、私の中では、最善を尽くす努力を試みた。
10回までは飛べたのだが、体力が持たず11回目で私が引っ掛ける…。何回もやっても私が引っ掛ける。堂々と私が大戦犯をやっているのだが
奇跡的にと言うべきか、誰も私がミスしても気が付かずだったのだ。
「練習では上手く行ったが、本番だと緊張するね」と、クラスメイトは随分呑気だ。その言葉とは裏腹に、隠れ戦犯な私は「早くこの時間が終わってくれー」と天に祈った。
無事に大縄跳びは終了。当然1回戦で敗退だったが、最後の最後まで戦犯が私だったのを誰も気が付かずだったのだ…。そもそも、練習に一度も不参加だった私が参加しているから失敗している時点で、不自然さも感じないクラスメイト…。これは最早、温情の域に到達しているのか?と錯覚したぐらいだ。
勝敗云々では無く、参加する事に意義がある体育祭だったが故にの、奇跡なのかも知れない…。
当時のクラスメイト達、大縄跳びの戦犯は私です。すみませんでしたー!
この出来事を今でも鮮明に覚えているのは、罪の意識を未だに感じているのであろうか?