小栗忠政 -ただまさ-(1555~1616)

通称、庄三郎・又一
吉忠の長男
母は石見守某の娘

小栗忠順(上野介)の先祖について語られる時、必ずと言っても良い程、登場する先祖が忠政である。
13歳で家康に仕え、十六歳の時、姉川の戦いで家康の目前に迫った敵の襲撃を家康の槍で討ち取る。
この戦いの以後、一番槍の手柄を立てる度に「又も一番槍か」と言われたので、以後「又一」と称されるのは、有名な話。
小栗家の嫡男は全て、又一を称するのは、この所以。

父親と違って「向こう見ず」。常に一番槍の軍功を得ていたが故に、その気質は極めて血気盛ん。
それを象徴するのが以下のエピソードである。

家康が駿河の田中城を攻める時の事だった。忠政は城攻めの先駆けを任させた。
そして夜中にこっそりと城の中へ忍び込んで、それを実行しようとした。ところが、城中に居た敵兵に気が付かれてしまい、忠政は敵と戦うハメに陥った。

お得意の槍で何とか敵を城内に敵を留めさせる事が出来たけれども、軍律違反と云う事で、家康から大目玉を食らい暫くの間、遠江の大須賀康高の元に身を寄せていた。
暫くした後、康高と共に出陣しそこで戦功を立てた事で、家康の勘気が解かれた。

他にも、城の警護を時間を間違い、予定の時間よりも早く退出し、これまた家康に大目玉を食らった、エピソードもある。

長久手の戦いでも戦功を上げた彼は、1600年の関ヶ原合戦では、家康側の使者として蒲生氏郷や福島正則を訪れた。
両名の説得の首尾を上手く行った忠政であるが、勇将の誉れ高い武将として、特に正則は手厚く忠政を接待した。
合戦以後、上野国と武蔵国と下総国に2550石を有する旗本となる。

忠政は、武蔵国足立郡にある普門院(現在、埼玉県さいたま市・大宮駅近く)を再興させる。
この寺は、小栗家の菩提寺となる。

大阪冬の陣では敵の様子を見に単独で馬を走らせ回ったが、敵側が忠政を恐れて誰1人発砲する事が出来なかった。
しかし夏の陣では家康側の陣営を見回りの途中に、城から発砲された弾に左股を撃たれる。

翌年にその傷が元で死去。内政に関して彼が関与した史実は不明であるが
父親とは異なり「武将」としての功績が目立つ一生であった。

小栗正重 -まさしげ-(?~1594)

通称、左京進。庶子、小栗重弘の子孫。筒針城主で吉忠の母親の兄。生涯の詳細は不明だが
幼少の吉忠を筒針城にて養った人物である。その後、吉忠に筒針城を譲る。

吉忠は1590年に64歳で病死している所を見ると、正重は、かなり長寿な生涯だったそうだ。

繰り返してしまうが、以上の事を考えると、正重を吉忠の祖父として考える事は
非常に無理があると思われる。この時代に入ると、90歳近くの長寿を全うする事も珍しくないので、
吉忠の叔父と考えるのが妥当であろう。

小栗久次 -ひさつぐ-(1549~1627)

通称、忠蔵。父親や先祖は一切不明。恐らく、三河に土着していた小栗氏の出自である可能性が高い。

幼い頃両親を失い、母方の親戚に養われた。鷹狩関連の技術を持っており、家康に仕えた後も鷹狩関連に従事していた。家康が鷹狩を好んでいたのは、周知の通り。
久次の鷹狩に関する技量は確かなものだったらしく、その腕を見込まれた豊臣秀吉の元に一時期、仕えていた時もある。
子孫は「鷹匠」として江戸幕府の職に就いた。

小栗信吉 -のぶよし-(1589~1661)

名は正信とも・通称:二右衛門

忠政の次男で幕臣。「小栗流」の始祖。
大坂の冬・夏の陣で活躍する。

彼は武芸家としてその名が高く、後に「小栗流」と称される和術を編み出した。
門下生が数多く居たそうだが、その中に山鹿素行の存在があるのも興味深い。
山鹿素行は言うまでもなく、赤穂浪士討ち入りのリーダーである大石良雄の師である。
間接的とは言え、赤穂浪士に対しても小栗の人間が関与している事になる。

この小栗流は土佐藩で主流の和術と成り、それは幕末まで続ている。
坂本龍馬も二十歳の時に小栗流の免許皆伝を会得している。

小栗正矩 -まさのり-(1626~81)

通称:美作

小栗正高の嫡男。彼の直接の先祖は小栗判官のモデルと思われる、助重に繋がる。即ち、常陸小栗家宗家の一族である。
助重の子孫である正重は、徳川家康に仕えた後、家康の次男である結城秀康と共に越後に入部する。
以来、小栗家は秀康を祖とする越後高田藩の家老職に就く。

1665年に越後地方を襲った地震により、父正高が死亡。
その後を継いだ正矩は約10数年間に渡って、高田の復興に努めた。
結果として町の復興は当然の事ながら、積極的な新田開発・経済向上など様々な政策を行い、高田藩の石高を約10万石を上昇させるに至った。

しかし、正矩の働きに対して、他の家臣や藩主松平光長(まつだいらみつなが)の弟である永見大蔵(ながみおおくら)の嫉妬を買う事になる。
やがてその嫉妬は、藩主の継嗣問題が絡んだ所謂「越後騒動」に発展し、1681年に将軍綱吉の命令によって切腹させられた。

彼も忠順と同様「有能であるが故に時代の犠牲者」になった人物でもある。