三河小栗家

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近世日本史

江戸時代に於ける小栗家の人々

小栗忠政 -ただまさ-(1555~1616) 通称、庄三郎・又一 吉忠の長男 母は石見守某の娘 小栗忠順(上野介)の先祖について語られる時、必ずと言っても良い程、登場する先祖が忠政である。 13歳で家康に仕え、十六歳の時、姉川の戦いで家康の...
近世日本史

小栗吉忠を巡る人達

ここでは、小栗吉忠と交流のあった人達を簡単に紹介する。 本多重次(1529~96年) 「鬼作左」で有名な、三河三奉行の1人。民政以外にも兵糧米の調達など軍政面にも関与している。 江尻城・久能城の警固番を勤める傍ら、駿河地域の政務を行う。 ま...
近世日本史

『家忠日記』に見える小栗吉忠

はじめに 『家忠日記』は18松平家の内、深溝松平家の4代目当主である、松平家忠が記した。記述期間は天正5年(1577)10月から文禄3年(1594)10月の約18年間に至り、基本的にその日起こった出来事を1~2行程度に淡々と書き記している内...
近世日本史

小栗吉忠に関するキーワード

筒針(つつばり) 現在の愛知県岡崎市筒針町。 岡崎城のある位置から少し西にある。 常陸から三河に入部した小栗重弘が拠点を置いた地であり、「小栗屋敷」若しくは「小栗城」の名前が史料で確認出来る。 吉忠は叔父の正重に養われる形でこの筒針で育ち成...
近世日本史

三河三奉行と三遠奉行

徳川家康が三河を統一した当時、家康配下の奉行人として以下の存在が確認出来る、とされている。 「仏高力・鬼作左・とちへんなしの天野三兵」と称されている、三河三奉行の三名。三名の内訳は、高力清長・本多重次・天野康景と言われている。 そして、三遠...
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