三河松平家

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近世日本史

「守山崩れ」当時の奉行人発給文書

天文4年(1535年)の12月5日、同族の松平信定を討つ為に、松平清康は尾張の守山に出陣したものの、その陣中で、家臣の阿部弥七郎によって殺された。これは俗に「守屋崩れ」(天文の内訌の一つ)と呼ばれ、一時的に松平氏の精力は衰退する。 陣中で馬...
近世日本史

三河小栗氏と謎の岩津松平家ついて

常陸小栗氏の三河入部について 助重は、赤松村に入部し「小栗屋敷」を設けて三河の人間と成った。三河には足利将軍家と関連している所領が多く存在し、 足利将軍家と繋がりのある関東の武士が三河へ入部する事は多々あった。そして、彼等の多くは三河譜代ま...
近世日本史

松平宗家並びに庶流家の紹介

徳川家康を輩出した「松平宗家」並びにその庶流家である「14松平家」について簡単に紹介する。 因みに初代親氏など早期の人物に関して生没年が記述されているサイトがあるが、彼等の生没年は諸説があり、実際の所は確定出来ない事を追記しておく。 松平宗...
近世日本史

徳川家臣の登用

徳川家康が天下を統一出来た影には、家臣の存在を抜きにしては語る事が出来ない。 家康は、如何なる手法で家臣を登用または、配置していたのか。 譜代家臣・今川氏と武田氏の遺臣登用について紹介してみる。 譜代家臣の登用 徳川家臣団は三河譜代を中心に...
近世日本史

戦国時代の松平氏

これは私が修士論文を執筆した際に松平氏についてまとめたもの。2000~2002年頃にまとめていた記憶がある。 執筆当時『三河松平一族』が出版されていなかったので、 少々、古い先行研究が記述されている可能性がある。松平宗家とその一族に関するコ...
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