『家忠日記』に見える小栗吉忠

三河小栗家について 近世日本史

はじめに

『家忠日記』は18松平家の内、深溝松平家の4代目当主である、松平家忠が記した。記述期間は天正5年(1577)10月から文禄3年(1594)10月の約18年間に至り、基本的にその日起こった出来事を1~2行程度に淡々と書き記している内容の日記である。日記には感情的な記述が一切見あたらないが、当時の政治情勢、特に家康の動向がリアルタイムで描写されているのと、戦国大名の日常生活・習慣がありのまま記載されている点が『日記』の特徴である。

さて、この『日記』には家康を始め多くの家臣や大名が登場するのは、言うまでもない事だが、僅かながらも小栗吉忠が登場する。家忠と吉忠が如何なる交流をしていたのか、記述部分を以下に記載した。「小栗二右衛門」または「小栗二右衛門尉」と記載されているのが、小栗吉忠である。

1587年(天正15年)2月3日

三日、壬辰、小栗二右衛門所ニふる舞候、むす子能見物候、

意味 
3日、吉忠から振舞を受けた。吉忠の息子(忠政)が演じた能を見物した。

「能」を介しての両者の交流。
当時の家忠は駿府城の普請に参加していた為、駿府へ滞在していた。
駿府城の普請は、家康が浜松から駿府へ居城を移した事に伴って行われた。

さて、問題1つあるのは「吉忠の元」がどの場所である。
一般的に吉忠は、「中泉」(磐田市)に拠点を置いていたとされている。
従って中泉と考えても良いのかも知れないが、駿府(静岡市)との距離は徒歩で換算すると相当なものであり、元に先月の日記では中泉に程近い、見付(みつけ・磐田市)にて宿泊し更にもう一泊をしてから
駿府へ向かっている。

更に翌日の日記には「駿府の家康から振る舞いを受けた」と書かれているばかりか、現に以後、家忠が駿府へ出仕した時には必ず吉忠の振舞を受けているので、相対的に考えると、恐らくこの当時の吉忠は中泉近郷で無く、駿府近郷に拠点を構えていた、と思われる。

1587年(天正15年)10月4日

四日、庚申、あさめし小栗二右衛門尉所へふる舞いにて越し候、
夕御城ニ初雁、初鮭の御ふる舞候、

意味
4日、吉忠の元に行き、朝飯を振る舞われた。夕方駿府城にて家康様から初雁と初鮭を振る舞われた。

吉忠から朝食を振る舞われる交流。
駿府城の普請が10月から再開されるのに伴って、家忠は再度、駿府へ赴いている。

1588年(天正16年)4月21日

廿一日、庚戌、初時鳥 小栗二右衛門へ能候て、見物ニ越候、(以下省略)

意味
21日、時鳥が初めて鳴いた。吉忠の屋敷に能見物しに行った。

再度「能」を介しての両者の交流である。
駿府城再普請の為、家忠は駿府へ滞在している。
この月の下旬に御陽成天皇の行幸に参加していた家康が今日から帰京する。

天正17年3月17日

十七日、甲子、小栗二右衛門所へ振舞にてこし候、

意味
17日、吉忠の元に振舞を受けに行った。

家忠は、吉忠から再度、振る舞われる。

天正17年10月17日・22日

十七日、辛卯、木引候、去十四日ニ中嶋へ縄打衆被越候由候、小栗二右衛門同心、
廿二日、丙申、木引候、去十八日ニ小美へ縄打之衆被越候由候、、小栗二右衛門同心、

意味
17日、方広寺大仏の木材を引いた。十四日に吉忠と同心が中嶋に縄を打ちに来た。
22日、方広寺大仏の木材を引いた。十八日に吉忠と同心が小美に縄を打ちに来た。

「木引候」は同年7月から11月まで行われていた普請に関する記述である。
秀吉が方広寺に建設している大仏殿用の柱として富士山の木々を使用するのを決めた事によって、その木々を方光寺まで引く普請であり、その普請を家忠が関与していた。

その普請と平行して、吉忠と同心が検地を行っている記述がされている。
所謂、五ヶ国総検地。

上記以外にも

1589年(天正18年)1月24日
1589年(天正18年)2月3日

の日に記載あり。

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