三河三奉行と三遠奉行

三河小栗家について 近世日本史

徳川家康が三河を統一した当時、家康配下の奉行人として以下の存在が確認出来る、とされている。

「仏高力・鬼作左・とちへんなしの天野三兵」と称されている、三河三奉行の三名。三名の内訳は、高力清長・本多重次・天野康景と言われている。
そして、三遠奉行と称される奉行人が二名存在する。此方は小栗吉忠と浅井道忠・道多親子である。

しかしながら、三河三奉行をこの3人とする説は否定されているばかりか、三遠奉行の呼称は正しくないと定義付けられている。そもそも当時の家康関連も史料を読むと「三河三奉行」や「三遠奉行」の呼称は一つも確認されておらず、この呼称は後世に作られたものである事が判明する。

三河三奉行について

先ず、徳川家康が三河を統一した頃、奉行の存在は確認出来る。しかし、この三名と植村正勝が奉行人として活動していたので、この時点で「三奉行=3人体制」で無い事が分かる。また、植村正勝以外にも大須賀康高が奉行として参加していた史実も確認出来る。恐らく、彼等は三奉行でなく個々の奉行として活動していた。それは後に三人固定の奉行人となり、結果として本多・高力・天野の三人が奉行として確立した。

彼等は戦国大名による領地支配機構の一環として、非常に重要な役割を果たしている。本多重次の例を挙げると三河以外にも遠江や駿河に於いて寺領支配・年貢と兵糧米の調達・交通に関する政策など多種多様な政務に関与している。

三遠奉行について

三奉行と比較すると残存している発給文書数は決して多くないので断片的にしか分からないけれども、此方は三奉行の補佐をする形で内政に関与していた。
「三遠」は恐らく、三河と遠江の事を意味していると思われるが、浅井道多は甲斐で奉行としての活動を行っていた為、三遠奉行と称するのは、間違えである。反対に、吉忠の方は主として中泉で内政に関与している為、甲斐での活動記録は全く無い。

またこれ以外にも、彼等が奉行として連署している発給文書は、存在していない。

つまり「三遠奉行=小栗吉忠と浅井道忠と道多親子」とするのは、かなり無理がある事である。恐らく、吉忠と道忠の両名が常に行動をしている点で、両者を同一の奉行人として扱われているのだろう。

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