小栗吉忠を巡る人達

三河小栗家について 近世日本史

ここでは、小栗吉忠と交流のあった人達を簡単に紹介する。

本多重次(1529~96年)

「鬼作左」で有名な、三河三奉行の1人。民政以外にも兵糧米の調達など軍政面にも関与している。
江尻城・久能城の警固番を勤める傍ら、駿河地域の政務を行う。
また、石川数正出奔後は、数正に代わり岡崎城の警固を勤める。
晩年は、豊臣秀吉の勘気を被り、諸役を解かれた事から、あまり、恵まれなかったそうだ。

高力清長(1530~1608年)

三河三奉行の1人。「仏高力」と称される程、清廉実直だった。
幼い家康が今川の人質として、駿河に護送される時に警固を勤めた。
軍功でも活躍したが、主に民政で活躍。
家康の関東入部後は、武蔵国岩槻2万石を与えられる。

天野康景(1537~1613年)

初名は「景能」。三河三奉行の1人。「とちへんなしの天野三郎兵衛」と称される。
「とちへんなし」とは、さしずめ「どっちつかず」と言う意味。
三奉行の1人として活躍し、家康の信任も厚かったが、彼の配下の人間が農民を殺したので、蟄居を命じられた。娘は、吉忠の息子、忠政の正妻となる。

松平家忠(1555~1600年)

18松平家の1つ「深溝(ふこうず)松平家」の当主。
軍政よりも土木工事などの普請面で活躍し、更に連歌を好む風流人。
彼が残した『日記』を読むと、吉忠と共に能鑑賞を行ったなど主に文化関連の交流が、記述されている。
1600年、関ヶ原の合戦の前哨戦と言える、伏見城での戦いに於いて、鳥居元忠と共に戦死した。

伊奈忠次(1550~1610年)

始めは徳川信康に父親と共に仕える。信康の自殺後に父と共に堺へ出奔。
2年後、堺に滞在していた家康に帰参を願い認められるが、この時の仲介人は吉忠であった。
その後は吉忠の同心として特に経済面で大活躍をし、
吉忠の死後は同心を統率する立場となる。

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