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近世日本史

『家忠日記』に見える小栗吉忠

はじめに 『家忠日記』は18松平家の内、深溝松平家の4代目当主である、松平家忠が記した。記述期間は天正5年(1577)10月から文禄3年(1594)10月の約18年間に至り、基本的にその日起こった出来事を1~2行程度に淡々と書き記している内...
近世日本史

小栗吉忠に関するキーワード

筒針(つつばり) 現在の愛知県岡崎市筒針町。 岡崎城のある位置から少し西にある。 常陸から三河に入部した小栗重弘が拠点を置いた地であり、「小栗屋敷」若しくは「小栗城」の名前が史料で確認出来る。 吉忠は叔父の正重に養われる形でこの筒針で育ち成...
近世日本史

三河三奉行と三遠奉行

徳川家康が三河を統一した当時、家康配下の奉行人として以下の存在が確認出来る、とされている。 「仏高力・鬼作左・とちへんなしの天野三兵」と称されている、三河三奉行の三名。三名の内訳は、高力清長・本多重次・天野康景と言われている。 そして、三遠...
近世日本史

小栗吉忠発給文書と年表

小栗吉忠年表 1527年 松平忠吉の子として生まれる。 母の兄である小栗家の叔父、小栗正重の三河筒針城にて養育される。 通称は「又市」(「一」に非ず)・「仁右衛門」。 松平姓から小栗姓に改める。 幼少期~青年期 家康の父、松平広忠に小姓とし...
近世日本史

「守山崩れ」当時の奉行人発給文書

天文4年(1535年)の12月5日、同族の松平信定を討つ為に、松平清康は尾張の守山に出陣したものの、その陣中で、家臣の阿部弥七郎によって殺された。これは俗に「守屋崩れ」(天文の内訌の一つ)と呼ばれ、一時的に松平氏の精力は衰退する。 陣中で馬...
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